吉川健一がダ〜ラダラ、ぷっくぷくしてるブログ
イタリア留学日記 特別編
愛車
久しぶりに、イタリア留学日記だけれども、今日は特別編だ。
たまたまT君のブログに僕の愛車の写真がアップしてあったので、そのまま拝借させてもらうことにする。
今までの留学日記の順序は変わってしまうが、僕は留学半年後には、イタリアで車を持っていた!イタリアで車?凄く贅沢に思われるかもしれないが、この車のおかげで実際良い思いもしたけれども、この車のせいで大変な思いをしたのも事実だ。
僕が住んでいたトルトーナという町は、ピエモンテ州の外れにあり、そのアレッサンドリア県の中でも外れにある。よって僕が、アレッサンドリア中心の国立音楽院に通うことになってから、車を購入する計画を立てた。だって学校まで通うのに、30キロ近く距離が離れていたし、電車だと2〜3時間に1本くらいしか電車が走っていなかったからだ。
それと購入するのに大きな決め手は、イタリアでは水道水が飲めないため、飲料水はスーパーで2リットルのペットボトルを6本まとめて買ってこなければならず、徒歩で2キロぐらいある大型スーパーからの帰りは、手が腫上がっていた。
そんなこともあり、車がほしかった。しかしお金が無かった。
車っていくらぐらいするんだろう?日本人会のGさんに相談したら、100万円くらいの車が今、日本人会で買い手を捜してるという。
100万?無理だ・・・
そこで今度は、これから留学日記本編でしばしば登場するだろう大恩人であり親友マッシィモ君がいつも僕の生活の手助けをしてくれていたのだが、車のことも相談したら、町のエンジニア、ラッザリーニ氏を僕に紹介してくれた。
彼は、無口で話す声も小さいのだが、車の話になると妙な笑顔で僕を対応してくれる。その彼が、工場の端にあるLANCIA Y(ランチャ イプシロン)という車を、日本円で5万円くらいの提示額で売ってくれた。5万?買える!!!すぐさま購入。
その後この車はとんでもないことに・・・(また本編で・・・)
結局このLANCIAは廃車に。
そこで2台目に登場するのが、この写真にあるイタリア車フィアット ウーノである。この車は、イタリアの経済に安定をもたらしたとも言われる伝説のイタリア人の愛車である。何が良いって、安い上にエンジンが良い!!!
イタリアの交通マナー事情は最悪なのは有名だが、最も有名なのは、駐車の仕方。イタリアでは路上に縦列駐車が当たり前なのだが、その車と車の間は数センチ。ではどうやって縦列から抜け出すのかというと、前後の車のバンパーをどつきながら脱出していく。そうなるとバンパーやミラーが破損するなんてもう当たり前の話なのだ。しかしこのフィアットウーノは凄い!だってイタリアで最も乗られている車なのだから、普通にスーパーでバンパーやミラーが購入できるのだ。もしものことがあっても大丈夫!
この車、元々はアレッサンドリア市役所で使われていた、車だったのだが、その車を知り合いになった車のディーラーが今度は10万円超で売ってくれるという。それも10年使用で6万キロしか走っていない。エンジンの状態は、抜群だ。まぁこの車もこれから大騒動を起こしてくれるのだが・・・これから本編に登場するだろう、事件の主要目次だけお教えしよう。
々眤道路一人放置される事件
▲好螢奪彁件
B臾源件
づ霪饂件
ニ稾注射車内で発見事件
などなど
ここまで書くと、近いうちに本編を書かなければならないが、僕は良い意味も、悪い意味もこの車を持ってよかった。僕はこのフィアット ウーノが大好きだ。今でも僕のアドレスにはこの文字を使用している。
その愛車を帰国時にどうするか?悩んだ、廃車にしてもお金がかかる。ディーラーに相談しても、もう売れない・・・そこで今、日本で一緒に歌っているT君に売ることになった。結構格安で売ったつもりだったのだが・・・
でも彼にも凄く満足してもらっていたらしい。
僕は、あのおかげでイタリア中の歌劇場にオペラを見に行くことができたし、時間があるときは、地図で景色のきれいそうな場所を探しドライブ等も楽しんだ。それに僕がボローニャに引っ越さなければならなかった時は、小さい車に家財道具全てをぎゅうぎゅうに詰め込んで運搬した。とにかくいっぱいの思い出が詰まったフィアットウーノだ。この車がまだイタリアのどこかで誰かに愛されながら乗られている事を切に祈る。おわり
イタリア留学日記 comments(2) trackbacks(0)
イタリア留学日記 その8
約5ヶ月ぶりに、イタリアの思い出を綴ろうと思います。前回まではカテゴリでイタリア留学日記を選んで読み返してください。
不幸の手紙から始まった、イタリア留学生活、留学生活に欠かせないのはなんといってもビザの申請。観光ビザでは3ヶ月しか滞在できず、長期滞在には必ず領事館の発行したビザを持たなくてはならない。(ピザ(Pizza)ではない・・・)
この滞在許可書を取得するには、まずイタリアでの引き受け先の学校などの保証書、銀行の口座(いくらか忘れたが、何十万円分の資金を持ち合わせているとの保証書)などが必要だという、しかしもう7年も前のことなので現在は改定されている可能性大。
まず学校の保証書は、例の大学院時代に訪れた夏期講習で出会った、フランカ・マッティウッチ先生が直筆で、プライベートの学校を開設かの様な保証書を書いてくれ、それを片手に、今度は銀行口座作り。ここからが悲惨なイタリア堂々巡りの旅の始まり、まず銀行口座を作るためには、税金納入者番号カードを作らなければならないと言われ、そのカードを作りに行くと、滞在許可書が必要だといわれる。滞在許可書を作るためには、銀行口座が必要で、銀行口座を作るためには・・・・・・・・。
結局どうしたかというと、知り合いのイタリア人が、税金納入者番号カードの役所の偉い人を知り合いに持っていて、最初並んだ長い行列も一発パス。笑顔でその友達が「日本から来た、有名オペラ歌手なんだけど、カード作ってやって!」って全く事実と違う紹介されたら、ものの1分で取得成功。
さぁ銀行へ!でもやっぱりイタリア、何を言われたのか覚えてないけど、もうすぐにでも滞在許可書を取得しなければならないのに、銀行口座作成だけで何週間もかかるとか言われて、その日はひとまず退散。
その話を聞いていた、あるイタリア頑固親父Fがその話を聞き、僕を違う銀行に連れて行ってくれるものの、その頑固親父街の評判では、お金にちょっとだらしなく、何人もの人が金銭トラブルでその人を悪く言っているとか・・・しかしやっぱりイタリアという国は、イタリア人の知り合いがいると早いのなんのって!やっぱりその日のうちに銀行口座を取得。
その数週間後、その銀行から今月の明細表が届くと、なななななんと自分の口座の残額数十万円が、まだ一回も引き出してもないのに、数千円引かれているではありませんか!!!!「こりゃ、やられた!」とその頑固親父の元へ抗議に向かったところ、初めてイタリア人と大喧嘩。片言のイタリア語で、「何でお前にやってもらった口座から金がなくなっているんだ?お前が盗んだのか?」僕も頑張った。その頑固親父Fも「俺じゃない、原因はiuyd8y320eik.,^-0929po1s;kl-」猛反発。しかし肝心なところのイタリア語が理解できない。仕方なく一緒に銀行窓口へ。するとやっと解った日本人には考えられない衝撃の事実が!イタリアの銀行は、銀行にお金を入れているだけで税金や諸経費が減らされて、お金を入れれば入れるほどお金が減る仕組みだという。それをはじめて知った僕はFに平謝り・・・しかしそのイタリア語が理解できない悔しさと、文化の違いのショックから、そのとき初めてベットの上で男泣きしたのを覚えています。
さぁ気を取り直して滞在許可書取得のために、警察署(Questura)へ。
まずこの警察署毎日やっているわけではなく、週に2日間ぐらい、数時間だけ窓口を開ける為、その入り口には信じられない数の、外人の行列。そのほとんどがアフリカ系黒人で、この黒人さん達、うちら日本人がよく目にしている方々は、アメリカ系の方々なのでまだ色が白い?が、アフリカ系の方々の黒さといったら、半端無く黒い。漆黒の黒といった感じ。決して人種差別で無いけど、あまり見慣れない黒人の大行列の中に、細っこい日本人が入るその恐怖って皆さんわかるかな〜〜?とにかくその初めての経験の中で待ち続けること数時間、午前9時に開門となったその瞬間、今までなんとなく作られていた行列が、一気に崩れ、その黒人たちが我先にと窓口に猛ダッシュ。僕も負けずに走りましたが、力不足の僕は、最初30番くらいだったはずなのにいつの間にか100番台に・・・これが移民問題の現場なのだと実感しながら順番を待つ。
やっとのこと窓口へ、何度も家で練習した申請の為のイタリア語を窓口で連呼!なぜか返ってくる言葉は「NO!」あれっ?もう何度か連呼すると、やはり「No!」なんで?そのうち「家へ帰れ!」と怒鳴られる。何とか身振り手振りで理解した内容は、フランカ先生が書いてくれたプライベート学校の保証書が、駄目だと言われていることがわかった。その警察官は一度日本へ帰れとも言う。どうしよ・・・何とか思いついた案は、「国立音楽院(Conservatorio)に入学したら滞在許可書をくれるのか?」と、なんとも不確かな道。そしたらなんと試験までの4ヶ月だけビザを出してくれるとのこと。
何とかビザを取得したものの、大変なことになってしまった。滞在を引き受けてくれる学校を見つけなければ。ここからまた運命を変える出会い、事件が起こるのであった。おわり
イタリア留学日記 comments(4) trackbacks(0)
イタリア留学日記 その7
今年初のイタリア留学日記復活版!(以前の日記はCATEGORIESから)
やっと大学院の卒業式後すぐイタリアに!住む所は、F・マッティウッチ先生の住むTortona(北イタリア・ピエモンテ州アレッサンドリア県トルトーナ)に決まり、アパートも手配済み!順風満帆かの様に始まった留学生活、期待は膨らむばかり。
しかし早速訪れた不幸な留学生活第一弾、まだ生活が始まり1週間、滞在許可書も取っていない状態で届いた1通の手紙。その手紙は、幸せを運ぶはずの黄色い封筒に入っていた。広告などのDMは到着直後からポストに入っていたが、手書きの手紙は初めて届いた。当然イタリア語なんて全く分からない状態でイタリアを訪れた為、何が書いてあるのかなんて全く分からない。その前に向こうの人の字が読めない・・・西欧人の筆記体って日本の学校で習ったあの筆記体とはまったく別の文字だったのだから、あの時程、英語の授業の無意味さを感じたことはない!そこでたまたまF・マッティウッチ先生門下で一緒になった日本人のKさんに読んでもらう事に。Kさんは今でも親交があり、とても頼りになる国音の先輩だが、そのKさんその時既に5年もイタリアにいるというだけあって、僕が学生時代知っていた、あのKさんとはもはや別人。凄くイタリア人的に洗練されたイタリア男になっていたのを憧れの眼差しで見ていたのを今でも覚えている。
そのKさんに読んでもらったこの手紙の内容は「コノテガミヲヨンダアナタハ、カナラズ、フコウニナリマ〜ス。モシイヤナラ10ニンニ、コノテガミヲオクリナサ〜イ。」ってこれ日本でも地味に流行った不幸の手紙じゃん・・・いつもニコニコ顔のKさんは、やはり笑顔で「俺イタリアに長く住んでるけど、こんな手紙着たことね〜〜!」って・・・俺はもうイタリア生活1週間でこんな手紙届いたってのに・・・。腹が立った僕は早速、アドレス帳でむかつく人に端からその手紙を送ることに・・・って嘘です。だってイタリアから日本に送ったら僕だってバレるし、イタリアにはまだ知り合いいなかったから・・・
このおかげでこのイタリア生活があんなに波乱万丈なものになってしまうなんて。。。
また気が向いた時に、つづく。おわり
イタリア留学日記 comments(4) trackbacks(0)
イタリア留学日記 その6
肋骨コルセット生活3日目、まだ咳が取れず・・・
また忘れた頃に、イタリア留学日記第6弾。
F・マッティウッチ先生に「大学院修了したら、すぐにイタリアに来なさい!」と言われ、それに気を良くし、親を説得しイタリア留学を決意!行くまで日本でする留学準備をスタート。まずしなければならない事!
ーけ入れ先を探す。
これには、イタリアで受け入れをしてもらえる教育機関の、保証書を手に入れること!これはF・マッティウッチ先生が、責任持って個人レッスンをするということが書いてある保証書(Certificato)をゲット!
∧欷院Assicurazione)に入ること。
これはイタリアの保険会社ジェネラーリ(Generali)で1年間分約10万円の契約で、加入。
ビザ(Visto)を取ること。´△鮖って三田のイタリア大使館へ。
イタリア人大使館員の、やけに陽気でいい加減な対応にちょっと不安に・・・約1〜2週間でビザが下りた。
ざ箙圈Banca)で、海外で下せる口座を作る。
これは富士銀行(現在はみずほ銀行)で、まず貯蓄預金に100万ぐらい入れて口座を作ると、海外の「CIRUS」というサービスがあるATMでどこでも下せる便利なシステムで、日本からの送金は、通帳を使って入金し、海外でクレジットカードを使って引き出しをしていた。
ゲ拑遒蝓
大切なのは、楽譜類。向こうで手に入れようと思っても、イタリアで楽譜を手に入れるのは容易ではない。なるべく今までやった曲の楽譜、特にアリア集(日本の出版社の物も可)等は、何かと便利。スコアー(Spartito)は、本場リコルディ(Ricordi)で手に入れると、安いし思い出になる。
次に大切なのは、日本食、僕が持っていったものは、まず炊飯器、のり玉(大好き)、のり、しょうゆ、五目寿司の素(重宝する)、そば、うどん等・・・それから変圧器、海外用コンセント等・・・洋服はほとんどファッションの都ミラノで購入した。それから薬類。イタリアの薬は日本人には、強すぎる薬ばかりなので、飲み慣れたものを、持っていくと良い。特に湿布や筋肉疲労の塗り薬などは、日本の物が良く効く。

とりあえず1999年時点では以上の手順で、留学準備を完了したと今の記憶にはある。住居はF・マッティウッチ先生が、紹介してくれた2Kアパート(後にマルセロ・アルヴァレスが住んでいたと判明!)家賃はな・な・なんと40万リラ=約2万円(当時、現在は1ユーロ=140円)に住むことが決まっていたので、後は悠々飛行機を予約して、大学院の卒業式を終えた翌日イタリアへ旅立って行ったのである!それからは波乱万丈な留学生活が・・・おわり
イタリア留学日記 comments(0) trackbacks(0)
イタリア留学日記 その5
約一ヶ月ぶりのイタリア留学日記。第5話!今までの、おさらいは是非CATEGORIESから再読してください!
とうとう、短期で訪れた、イタリア初講習会の最終日、初ラブシーンを控えた本番前。何が起きたかというと、くだらないんです。。。でも23歳だったウブな自分には、とてもショックだったんです。
タンクトップのワンピースドレスにビッチシと決めた、イタリア美女ルチアと「フィガロの結婚」のワンシーンを演奏する順番が訪れ、僕はいつものようにノリノリで、舞台に立ち、ルチアとの演技の息もピッタリ。後は、最後に両腕を開き、抱き合う演技が残された瞬間・・・そこに見えたのは、ルチアの脇に光る黒々とした体毛が!!!!!あんなにルチアに恋をした自分が、唖然としながら一気にどこかに引いて行くのを実感するまま、ルチアに抱かれ、演奏は終了。
真面目な話、無駄毛は剃るという常識は、日本での事。イタリア等敬謙なカトリックの国では、刃物を体に当てることをあまり相応しくないと考えるらしいのです。それを僕は100年の恋が一気に冷めたかのように、大騒ぎ。
それから講習会が終わって、ファッションの都ミラノの街を散策するときも、どうしても視線は女性の脇に・・・
というわけで、いろんな意味で波乱づくしの講習会は無事に終わり、さよならパーティーでは、皆でディスコに行き、朝まで大騒ぎ!とても楽しい思い出でした。この講習会で、お世話になったFRANCA MATTIUCCI先生が、大学院修了後、すぐイタリアに来なさいと誘っていただき、この後の長期留学のきっかけになったのです。
この後、3年間の留学日記が新にスタートします。乞うご期待!おわり
イタリア留学日記 comments(2) trackbacks(0)
イタリア留学日記 その4
自己満足的な不定期掲載留学日記第4弾。
北イタリアのド田舎でのイタリアデビューコンサート、大嵐の中、一生忘れられない夜を興奮と共に過ごした。
次の日も朝からレッスン。この講習会、歌のレッスンだけでなく、Artescenica(演技法)の授業もあると知らされる。全くイタリア語も解らないうちに、今度はイタリア人の女性と「フィガロの結婚」の一部分を演技付きで勉強し、また講習会最後のコンサートで披露するというではないか!
ここで出会ったのが、Lucia。ルチアなんて名前、オペラの中だけでしか存在しないのかと思っていた僕は、その名前を聞いただけで、「オペラの国イタリア」に感動したものである。
彼女はいかにも、ラテン系の女性といった感じで、真っ黒な髪と、日に焼けた小麦色の肌が、僕の心をときめかせた。イタリア女性への初恋である!
僕はフィガロ。ルチアはスザンナ。課題は一幕の最初の部分は、皆さんご存知の、幸福満開の場面で、お互い抱き合い、頬にキスをされる、バリトン歌手には願っても無いチャンス。
授業の内容は、例によって全く覚えてない。
講習会は、約2週間、毎日歌と演技の授業。暇な時間は、プールで泳ぎ、後は山の野原で、ひたすらボ〜っとしてる期間は、あっという間に時が経ち、とうとう運命の講習会最後のコンサートの日が訪れる。そこでもまた一生忘れない事件が・・・ん〜〜〜書くべきか、書かないべきか、また次回。おわり
イタリア留学日記 comments(2) trackbacks(0)
イタリア留学日記 その3
大好評?イタリア留学日記第3弾!(前回分参照してください)
はじめて「BRAVO!」と声のかかったイタリアでのコンサート、もう時間は22時過ぎ、1時間も遅れて始まったコンサートだったが、今考えると、イタリアの平均的な夕飯時間は20〜21時から、ピザ屋やレストランもこの時間帯あたりから客が入りだす。よってコンサートは伝統的なイタリア人生活スタイルに合わせると、当然22時ごろからのスタートになる。もう今考えると夜中、しかし暑いイタリアの日中を考えると、夜は涼しくて過ごし易い。この日も暑かった、虫達も夜になると、コンサートの照明めがけて活動開始。月も綺麗であった、がっ!突然コンサート半ばに入り始めた途端、雲行きが怪しくなり、遠くで雷の音が聞こえてくるようになった。確認しとくが、ここは北イタリアの山奥の農家の中庭でのコンサート・・・
自分がオペラのアリアを歌いながらも、雷が気になり始めてきた矢先、突然バケツをひっくり返したような、大雨!雨のせいか雷のせいか、照明も一斉に落ちた、ここは中庭、お客も歌い手もずぶ濡れ、一番気になったのが、押入れから登場してきたのにも関わらず、ここまでコンサートで大活躍のアップライトピアノが誰にも助けてもらえずに、一人寂しく濡れていたのを見て、僕は、タキシードのまま濡れながらピアノを近くの納屋にしまい込んだ。
大混乱の中に入り込んだ納屋だったが、中は真っ暗。ただすごく広い感じはした。そのうち懐中電灯とロウソクを誰かが着けはじめた。ふと見るとそこに200人近くのお客さんもそこに避難していた。ロウソクが一本つくたびに、拍手が起きていた。その拍手がみんなずぶ濡れになった開き直りか、拍手が手拍子になったり、お客さんたちがその暗闇の納屋を楽しんでいた。ここで誰かが歌い始めたのか(僕だったかも・・・?)O SOLE MIO(私の太陽)を歌いだした、そしたら大盛り上がり、この曲の歌詞を知らないイタリア人など存在せず、真っ暗な納屋でいつの間にか、カンツォーネ大会になっていた。それがなんか楽しかった!コンサートが途中で中止されたことや、服が濡れたこと、髪のセットも化粧もとれてしまっているのに、みんな笑顔でo sole mioを歌っていた。どれぐらいそこで過ごしたかは覚えてないが、いつの間にか雨もやんでいた、客も一人ひとり家に帰っていった。僕はもう一度ピアノを拭いてあげた。だってあのオンボロピアノが今日の主役だったから!僕は始めてのコンサートだったということ以上に興奮していた。たぶんイタリアがはじめて好きになった瞬間だったと思う。
その後また何時間も山道を車に乗って帰ってきたが、帰りも車酔いしたのは言うまでもない。翌日のレッスンで先生から重大発表!それはまた今度・・・おわり
イタリア留学日記 comments(1) trackbacks(0)
イタリア留学日記 その2
久しぶりにイタリア留学日記第2弾続きです。(前回分は隣のカテゴリーから「その1」を読んでください)
講習会参加中の僕に突然のコンサート出演命令。拉致同然に車に乗せられ、車酔いしながら、山道を車で走ること2時間(たぶん)!名前は忘れたが、田舎町の農家の中庭で車を降ろされた。農家の中庭と言ってもイタリアの農家のスケールは大きい。サッカーの試合ができる程の中庭であった。そこの端に小さい赤じゅうたんが敷いてあるステージがあったと思う。僕は、初めてイタリア人の前で歌うコンサート(野外マイク無しコンサート)、かなり緊張していた。
このコンサートには、講習会の中から何名か選ばれて、同い年の人の善い、そして体格が良いお兄さんがいるイタリア人テノールGiorgio Truccoや、まもなくこの留学日記の話の主人公になるだろうLucia、他は名前を忘れたが、でかい声のアメリカ人ソプラノがいた。
コンサート開演は21時予定、会場に着いたのが20時頃だっただろうか、まず始まったのが、発声練習でも無し、会場のセッティングでも無し、この農家でできたワインの飲み放題会だった。今まで酒を飲んで歌う事などタブーと考えていた、まだ若かりし22歳の僕には、異様な光景に見えたが、イタリア人歌手達は、ガバガバと飲み始めたではないか!つられて僕も一滴二滴三滴、1グラス2グラス・・・位でやめたと思うが、はじめて飲む「地ワイン」の味にすっかり虜になってしまった。そうそうサラミやチーズも美味しかった!
そうそうコンサートの開演は21時だった筈。。チラシにも21時と書かれている。。。陽もやっと落ちかけてきた。ふと時計を見るともう21時。僕の右手にはワイングラス、左手にはサラミ、服は短パン&Tシャツ&サンダル。でもここはイタリア、時間なんて堅苦しい事は言わないのが陽気なラテン民族。21時になってからやっと行動開始、みんなほろ酔い加減で動き始めた、まずやったことは、押入れみたいなところから、アップライトピアノを持ってきたことだったろうか、調律師なんて人は当然いないが、伴奏&司会者の人が突然ハンマー出してちょっと調整していたのに驚いた記憶がある。それから次にやり始めたのが、蚊取り線香をステージじゅうに置き始めた。なんせ田舎の野外コンサート、照明めがけて飛んでくる虫の数が半端ではない。それから何やったかな〜。でもその頃にはもう21:30、でも客らしき人なんてまだいない・・・しつこい様だが21時開演のコンサート!
次にしたのが、エスプレッソを飲み始めた。これは酔い覚ましと、眠気覚まし。やっと出演者もリハをしたり、発声練習をし始めた。
やっと22時。本当は22時開演だったのでは?と思うぐらいに、人がどんどん集まってくる。一気に超満員、みんな近所のおじいちゃん、おばあちゃんと言った感じだ。やっとコンサートも始まる、僕のイタリア初舞台、僕の緊張、舞台のボルテージも最高潮。
僕も含めた最初の何人か歌い、良い感じでコンサートはスタート!最初の舞台の感想は、あんまり覚えてないから上手く書けないが、イタリア人に、初めて「BRAVO!」をもらったのがうれしくてしょうがなかった事だけは覚えてる。しかしこのコンサート、このまま順調に終わらなかったから、一生忘れられないコンサートになったのである。その続きはまたこんど!おわり
イタリア留学日記 comments(3) trackbacks(0)
イタリア留学日記 その1
ん〜今日は何書いたらいいものか・・・そろそろイタリア留学の思い出話でも小出しにしていくことにしようと思います。
僕が国立音大大学院2年生の時、北イタリア山奥の町で開かれた、夏期講習に参加することになった、そこには先日のブログでも書いたように、伊藤京子先生も参加なさっていた。そこでお世話になった先生が、フランカ・マッティウッチ先生。シミオナートやテバルディが世界の劇場を魅了していた同時代に、フランカ先生もミラノスカラ座、ウィーン、メトロポリタン等の舞台に立っていたメゾの先生だ。
その頃の僕は、全くイタリア語も喋れず、「トイレにティッシュが無い」とイタリア語で伝えられず、日本人の女性の方にわざわざ伝えてもらったくらいだ・・・その町の名前はたしか、「BERGOLO」本当の山奥、日光のいろは坂以上の山道を、馬鹿イタリア人の乱暴運転で、上っていく為、乗り物に弱い僕は毎回車酔い・・・でも頂上から見る景色は本当にすばらしかったのを今でも覚えている。この町は夏だけ訪れるイタリア人の別荘地で、一応小さなホテルと市営プール、BARとおみやげ屋さん位はあっただろうか、そんな田舎に突然2〜30人の音楽家がやってきて、一日中騒音を撒き散らす期間だった。。。その中に僕を含めた日本人が数人いたのだが、山奥のイタリア人には日本人がとても珍しいらしく、チャックでも開いてるのかと思わせるような、視線を感じたのを覚えている。朝食は基本的に無し、昼食・夜食は講習会参加者と一緒に取る。だが7年も前のことで、上手かったかどうかまでは覚えてない。
レッスンは一日約1時間、これが10日間続いた。レッスン会場は、山頂のさらに頂上の小さい教会で行われた。アップライトを無理やり運んだらしく、ボロボロのピアノが置いてあったと思う。レッスンで何を学んだかなんて、とても覚えてはいないが、先生がとても喜んでくれていたのは覚えている。しかしイタリア語が全くわからず、僕が満面の笑みで誤魔化していたのに対し、先生もただ笑みで返していたのを、勝手に喜んでいたと勘違いしていたような気もする・・・そんなこんなでレッスンだけ何とか誤魔化しながら生活をするのかと思いきや、レッスン2日目で、「Ken vai a cantare al concerto stasera!」(ケン今晩のコンサートに歌いに行きなさい!)と言われ何の事かもわからず、また車酔いしながら勝手に何キロも離れた町に連れて行かれた。そこで行ったコンサート、大変なことが待ち受けていたのであった・・・!つづく
イタリア留学日記 comments(0) trackbacks(0)
| 1/1 |
Material by 歪曲実験室。
Template by malo pismo
Log in | RSS1.0 | Atom0.3 |
(C) 2017 ブログ JUGEM Some Rights Reserved.